桐は日本人の生活・文化のなかで楽器、家具、履き物、小箱、花器、茶筒、茶托、お盆など広い範囲にわたって利用され親しまれてきました。 特に会津桐は南部桐とともに木目が引き締まって美しく、福島県会津地方では桐細工が発達しました。
明治元年の戊辰戦争によって、会津若松の旧市街は丸焼けとなり跡地がわずかに名残を留めています。
戊申戦争の悲劇として白虎隊の悲劇が知られています。明治維新という時代の流れの中で、会津を守るという純粋な気持ちで戦場にでて、ついには自刃して果てます。
会津は、大変教育熱心で白虎隊の少年達は藩校日新館で学びました。日新館に修学する前の童子たちにも解りやすい教科書がありました。会津藩初代保科正之の家訓です。
日常の逸話をもとにして童子達に心構えを教えています。武道初心集ののようなもので「日新館童子訓」として現代訳(中村彰彦訳)されています。
一.年長者のいうことに背いてはいけません。
二.年長者にはお辞儀をしなければなりません。
三.嘘をついてはなりません。
四.卑怯なふるまいをしてはなりません。
(以下略)
ならぬものはならぬものです。と躾から教えられ”会津魂”が受け継がれています。
昔、農家では女の子が生まれると庭に桐の苗木を二本植え、その子が成人してお嫁入りするときに桐を伐採し、 その材料で桐タンスや長持を作り嫁道具としたと云います。桐は成長はきわめて早く、木肌は美しくて狂いが少なく、切削等の加工が比較的容易で木工に適し、難点は強度は劣るが軽くて持ちやすくタンス、下駄、箱物等に応用されます。また
発火しにくいことから、大切な物を守るために着物、掛け軸など一家の財産を保管するために用いられていました。 |